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2026/07/10

【0.01ミリの継承】第4話「グエンのノート」

※これは丈本精機を舞台にした機械加工の現場で、技術と人が少しずつ受け継がれていく物語(フィクション)です。

昼休みが終わる少し前、工場の片隅でグエンが小さなノートを開いていた。

表紙の角は少し丸まり、何度も開いた跡がある。

中には、日本語とベトナム語が並んでいた。

外径。

内径。

面取り。

逃がし。

公差。

段取り。

確認してから加工する。

ひとつの言葉の横に、短い説明と簡単な絵が描かれている。

入社したばかりの頃、グエンは日本語の指示を聞き取るだけで精一杯だった。

工具の名前も、機械の音の違いも、図面の記号も、すべてが難しかった。

けれど、分からないことをそのままにしなかった。

聞いた言葉を書き、教わったことを絵にし、休み時間に何度も見返した。

その日も、グエンはノートに新しい言葉を書いていた。

「最後に仕上げる」

少し考えてから、横に丸い部品の絵を描く。

そして、矢印をつけた。

そこへ、新見理玖が近づいてきた。

「グエンさん、それ何を書いてるんですか?」

グエンは顔を上げ、少し照れたように笑った。

「今日、豪田さんが言ったこと。最後に仕上げる。大事」

理玖はノートをのぞき込んだ。

日本語の横に、見たことのない言葉が並んでいる。

けれど、図と矢印を見ると、何を覚えようとしているのかは分かった。

「すごいですね。僕よりちゃんとまとめてます」

理玖は、少し恥ずかしくなった。

同じ新人に近い立場だと思っていたグエンが、自分よりずっと前を歩いているように見えた。

「忘れるから、書く」

グエンは短く言った。

その言葉に、理玖は少し黙った。

自分も分からないことは多い。けれど、聞いて終わりにしていることがある。

覚えたつもりになって、次の日には曖昧になっていることもある。

「僕も、もっと書いた方がいいですね」

「一緒に書く。分からない言葉、聞く」

グエンはそう言って、ノートの余白を指差した。

午後の作業が始まると、成瀬課長が二人を呼んだ。

「新見、グエン。今日はこの図面を見ながら、工程の流れを確認する」

作業台の上には、先日届いた大きな丸物部品の図面が広げられていた。

豪田徹も横に立ち、腕を組んでいる。

「まず、どこを見る」

成瀬課長が聞いた。

理玖は図面を見た。

外径、内径、公差、材質。

迷いながらも、指で図面の一部を示した。

「この寸法と、公差です」

成瀬課長はうなずいた。

「悪くない。グエンは?」

グエンは少し時間をかけて図面を見た。

そして、別の部分を指差した。

「ここ、最後。先に削ると、たぶん変わる」

豪田が目を細めた。

「よく見てるな」

グエンは少しだけ笑った。

「前に、失敗しそうになった。豪田さん、教えた」

「教えたんじゃない。怒ったんだ」

豪田がそう言うと、成瀬課長が苦笑した。

「怒っただけで終わらせないのが大事なんですよ」

豪田は何も言わなかったが、少しだけ口元が緩んだ。

理玖は、グエンのノートを思い出していた。

分からないことを書き、何度も見返し、少しずつ自分のものにしていく。

それは特別な才能ではなく、続ける力だった。

理玖には、その続ける力がまだ足りない気がした。

けれど、足りないなら、今日から足せばいいとも思った。

「新見」

成瀬課長が声をかけた。

「はい」

「人によって覚え方は違う。見て覚える人もいる。書いて覚える人もいる。聞いて覚える人もいる。大事なのは、自分に合った覚え方を見つけることだ」

理玖はうなずいた。

「はい」

「それと、ひとりで覚えようとしすぎるな。現場はチームだ。分からないことを聞ける人がいるなら、それは強みだ」

グエンはノートを閉じ、理玖に言った。

「あとで、一緒に書く」

「お願いします」

理玖は笑った。

工場の奥では、大型旋盤が静かに構えていた。

その前で、ベテランが図面を読み、課長が流れを教え、若手と外国人社員が同じ図面をのぞき込んでいる。

言葉も、経験も、覚える速さも違う。

けれど、同じ部品をつくるために、同じ図面を見ている。

高杉圭次は、事務所の入口からその様子を見ていた。

技術を継ぐということは、ただ同じやり方を繰り返すことではない。

分からない人に届く言葉に変え、次の人が使える形にして渡していくことだ。

グエンのノートには、その小さな形があった。

午後の工場に、機械の音が戻り始める。

理玖はポケットから自分のメモ帳を取り出した。

そして、最初の一行を書いた。

「分かったふりをしない」

その横で、グエンが静かにうなずいた。

第5話へ続く